マリオンの壁 (角川文庫)
ケータイ、パソコン、インターネッツ。
それらはもはや生活になくてはならないものになり、行ったことのない店に行くとき、わからない言葉を調べるとき、待ち合わせに遅れそうなとき、昔はどうしてたっけ?と思わずにいられない。
わたしが初めて持った携帯通信機器はポケベル(しかもまだかわいいのとかはなくて、もろオッサン向けのやつ)だったし、ケータイを持ったのも成人してからだった。
パソコンをいじるようになったのもケッコンしてからだ。
それまではどうしてたっけ?
男の子の家に電話するときちょっとキンチョーしたり、友だちにハガキを出したり(学校で毎日会うのに)、授業中ノートの切れっぱしに書いた手紙を回して先生に見つかって怒られたり、調べものといえば図書館に行ったり、帰りが遅くなるときは公衆電話を探したり、したよね?
ジャック・フィニィの小説を読むといつもそんなふうに、不便だったけど懐かしいあれこれを思い出す。
1973年に書かれたこの本は、映画がまだサイレントだった1920〜30年代への郷愁に溢れてる。
父親が若い頃に住んでいた古い建物に越してきた若夫婦。
改装のために壁紙を剥したら、その下から真っ赤な口紅のなぐり書きが現れた。
Marion Marsh lived here
June14,1926
Read it and weep!
「マリオン・マーシュここに住めり。1926年6月14日。読んで泣き面かくがいい!!」
口紅一本まるまる使ったと思われる、壁一面の落書き。
それは、かつてこの部屋に住んでいた無名の女優マリオン・マーシュの残したものだった。
マリオンは、才能を認められてハリウッドへ旅立つ前夜、自動車事故で急死したのだった。
それからその家には陽気で奔放なマリオンの幽霊が出るようになり、主人公の妻の体を無断で借りて、果たせなかった銀幕デビューの夢に再挑戦しようとする…。
というお話です。
過去からやってきたマリオンの、現代(と言っても1970年代だけど)に感じる違和感や、サイレント映画マニアの主人公が両親の青春時代に対して抱いてる憧れが、フィニィならではの皮肉だけどあたたかな、独特のユーモアとともに描かれています。
福島正実氏の名訳!によって、登場人物のみならず、主人公夫婦の愛犬アルも生き生きと目に浮かびます。
じっさい、この本を「イヌ本カテゴリ」で紹介するのは、このアルの存在感があったればこそ!
バセットハウンドのアルが、脇役ながらも味のある役どころをほぼ全編にわたって務めています。
ポテトチップをキャッチしそこねて大急ぎで拾って飲み込み、座りなおして主人公を見つめるシーンなど、ハウンドつながりのビーグル飼いにも、おおいに共感できたよ!
「メール」は、紙に書いてポストに入れてた。
電話は一家に一台。
友だちの家の電話番号を、いくつも暗記してた。
初めてのお店には、雑誌の切り抜き片手にキョロキョロしながらたどり着いた。
写真を撮ったら、現像するまでどんなふうに撮れてるかわからなかった。
終電が何分に出るか忘れて、とりあえず駅まで走った。
ケータイ、パソコン、デジカメ。
便利でスピーディーでいろんな楽しみがある現代を否定するわけではないけれど、ときどきこうして、どこを探してももう見つからない時代を思い出して懐かしむのも悪くないよ。
などと思うのは、年を取った証拠…なのですかね…。
“〜恐ろしく大きな茶目で、人間的で無邪気である。完全に信頼しきった四年の歳月が、茶と白のふわふわの毛に包まれた犬の顔を借りて、こっちの目を見通そうとしているかのようだ。〜”
…と、ジャック・フィニィの表現する犬の眼差しは、きっと今も昔も変わらないよね。
短編集の「ゲイルズバーグの春を愛す」もオススメです。